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鬼滅の刃 命の輪の物語の引力について

物語

イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリの著書、「21 Lessons」の20章に 以下の一節があります。

私たちは人生の意味を探し求めるときには、現実はいったいどういうものかや、宇宙のドラマの中で自分がどんな役割を果たすのかを説明してくれる物語を欲しがる。その役割のおかげで、私は何か自分よりも大きいものの一部となり、自分の経験や選択の一切に意味が与えられる。

無数の不安な人間たちに何千年にもわたって語られてきた、人気抜群の物語がある。それによると、私たちはみな、生きとし生けるものを網羅して結びつける永遠のサイクルの一部だという。どの生き物にも、このサイクルの中で果たすべき特有の機能がある。人生の意味を理解するとは、自分ならではの機能を理解することであり、良い人生を送るとは、その機能を果たすことだ。

それを読んで一番最初に思い出した物語が、一世を風靡した『鬼滅の刃』です。鬼殺隊のメンバーがそれぞれ己の役割を全うし死に、残ったメンバーに託していき、遂には無惨を倒す、正に「命の輪」の物語です。鬼殺隊のメンバーは誰一人として後悔せずに死んでいきます。それは、彼らが「命の輪」という人生の物語を信じ、その部品のひとつとして己の機能を果たして死んでいくからです。最後の無惨との戦いで鬼殺隊の一般隊員達は、柱を守るために、文字通り肉の壁となって散っていきます。悲惨な戦いですが、第二次世界大戦の日本の特攻隊のように、大きな物語の機能のささやかな役割を果たすために、自らの命を捧げ死んでいくことは、人類史において珍しい風景ではありません。

他方で「命の輪」という物語を信じず、己の役割をはみ出して生きた鬼は、例外なく、はみ出したことを後悔して死んでいきます。「わが生涯に一片の悔いなし」と言って死んでいく鬼がいても良いと思いますが、道を究めようとした猗窩座も黒死牟も、皆人間を止め、命の輪から外れたことを後悔して死んでいきます。無惨ですら、最期は命の輪という物語を信じ、炭治郎に託そうとします。だれもが魂を命の輪という引力に魅かれていくのです。

私たちは生まれた時から、様々な物語を刷り込まれていき、社会の構成員としての役割を学んでいきます。それが人間という種族の力の源泉である、集団を維持するためのシステムなのです。鬼滅の刃は、命の輪という物語の素晴らしさとその引力を私たちに教えてくれます。

著書で、「人生は物語ではない」、とハラリは主張します。あなたは、どう考え、何を選択しますか?

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