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ベルセルク 黄金時代 三浦建太郎さんの死去に添えて

物語

はじめに

三浦建太郎さんが2021年5月6日に死去されたニュースが入ってきた。終わらない物語がまた一つ増えた。物語は完結を迎えてはじめて過去となり、記憶の一部となるが、未完の物語は、時折見る夢のように、私たちの人生の傍らに漂い続けることになる。各人の頭の片隅で、ループし永遠に発酵し続ける。

いや、あえて言おう。私にとってベルセルクという物語は既に終わっていたのだ。黄金時代から蝕までが私にとってのベルセルク。私の青春時代そのものだ。その後はエンドロールの続き、余韻なのだ。素晴らしい物語をありがとう、三浦先生。

黄金時代

私にとってベルセルクは思春期と共にあった。ベルセルク第二章は名台詞のオンパレードだ。やがて迎える蝕を引き立たせるように、まさしく青春時代と同じように、若く、希望に満ち溢れた、仲間と共にあった黄金時代だ。新たな集団に加わり、衝突し、認め合い、協力し、夢に憧れ、やがて訪れる別れ。誰もが経験する普遍的な青春と、物語の展開が重なってしまう人は、多いはずだ。そして一度自分の経験と重なってしまうと、この重厚な物語の蝕に引きずり込まれてしまう。我々はやがて蝕が訪れることを知っている。グリフィスが捧げることを知っている。知っていてなお、いやその結末を知っているからこそ、そこまでのストーリーの展開を深く知りたいと思うのだ。ベルセルク未読の方はこの章だけでも是非読んで見てください。(一度読み始めてしまったら、もう止まらないと思うけどね。。。)

グリフィスという存在

誰しも若いころには、憧れ、認められたい相手がいたはずだ。自分の夢や理想を他人に仮託してしまう、そんな時期がある。鷹の団員にとって、グリフィスは夢を仮託する存在だった。そしてその日を生き抜くことに精一杯だあったガッツにとって、太陽を背に空を飛ぶグリフィスは眩しかった。

生まれてしまったから しかたなくただ生きる……そんな生き方オレには耐えられない

グリフィス

対等の者、自分で手にする何か、折り合い

あこがれた存在に認められたいという承認欲求は、誰にでもあるはずだ。鷹の団で自分の居場所を見つけたガッツだが、彼はグリフィスの後ろではなく、横に並びたいと思った。対等の者、友になりたいと思ったのだ。痺れるねぇ。

決して人の夢にすがったりしない、誰にも強いられることなく、自分の生きる理由は自ら定め進んでいく者。
そして、その夢を踏みにじる者があれば全身全霊をかけて立ちむかう。
たとえそれがこの私自身であったとしても…私にとって友とは、そんな“対等の者”だと思っています

グリフィス

オレは 自分で手にする何かであいつの横に並びたい オレは あいつにだけはなめられるわけにはいかねえんだ

ガッツ

コルカスがいい味出してた。自分で手にする何か、か。

大抵の人間は自分の力量や器と自分の置かれた現実に折り合いをつけて 何とかやっていくもんだ

夢さえあればいいなんて言ってるヤツはよくいるけどな!! オレはそういう野郎を見てるとムシズが走るぜ

夢さえあれば か・・・ そんなもんは現実に目を向けられない弱っちい人間の逃げ口上だよ!

コルカス

黄金時代の終わり

ここでは多くを述べない。ただ黄金時代はいつか終わるし、私たちは皆人生の選択をし、選択したことを正しいものにするために行動していくだけだ。終わったことに気付くのは、いつも振り返った時だ。人生に後悔はしないと心に決めても、大人になりふと立ち止まった時、後ろを振り返る瞬間は必ず来る。そんなときは、あのセリフがどうしても思い浮かんでしまう。

どうして終わったり、なくしたりしてから、いつもそうだったと気がつくんだろう。

ガッツ

終わりに

最初から最後まで物語に寄り添う必要はないと思う。あなたが求めるとき、あなたが求めるその場所でその断片は黄金色に輝いているはずだ。思春期にベルセルクと出会った至福の時間を私は一生忘れません。三浦先生、お疲れさまでした。素晴らしい物語をありがとうございました。さようなら、鷹の団とその仲間たち。

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